論議の範囲が広くてついていけませんので、一番気になった問題だけについて書きます。

「殺せ!と神が命じるとき」

(1)人の命の重さ、または価値は、今も昔も同じだったのでしょうか?
(2)人間から見た人の命と神から見た人の命とは同じ価値なのでしょうか?
(3)人が死ぬと言う事はすべての人にとって同じ意味なのでしょうか?
(4)今の時代でも殺せ!と神が命じる事があるのでしょうか?
この四つの点について考えを書きます。

(1)は違うと思います。人一人の命は何よりも尊いと言う考えが一般化したのは、近代になってからではないでしょうか、特に日本に定着したのは戦争以後のような気がします。もちろん、隣人が死んだ時の悲しみは今も昔も変わらないでしょうが、社会全体の中での個人の命はそんなに尊重されていなかったのではないでしょうか?まして敵対する民族や宗教に対しては、命の尊重なんてあったのでしょうか?「鬼畜米英」なんて言葉もありましたが、今でも外国での航空機事故の時なんかは、まず「この中に日本人は・・」と決まって言いますところを見ると、外国人が何人死んでもかまわないと言う気持ちが何処かにあるのではないでしょうか?明らかに現代でも、自分の命、家族の命、知人の命、他人の命とランクがあるのではないかと思います。ひどい時には、「死んだのが他人でよかった」と思う人もいるでしょう。モーセの時代に異民族を殺す事が、今と同じような意味で悪だったのでしょうか?

(2)は、神から見ると人間の命はこの世限りではないので、俗に言う「死」はこの世の終わりを意味するだけで、肉体の死ではあっても霊の死ではないはずです。魂は生きてまた復活するとすれば、早く死んで次の世で生きた方がいいかも知れません。(この考えが、「ポア」につながるのでしょうが)神から見て現世での生死は、現世であがいている私たちが思うほど大きな問題ではなく、永遠の生命の方が問題なのではないでしょうか?

(3) は、一人一人すべて違うと思います。特に次の世(来世)を信じるか信じないかで、大き違ってくると思います。(1)でも書いたように、この世限りで命が消滅するなら、これは人生にとって大きな問題です。しかし、死の後に復活があるとすれば、生きる事より大切な事があるかも知れません。

(4) につては、私は神様から「殺せ!」と命じられた事はありません。佐倉さんはどうですか?(ジョークですから答えなくて結構です) 神はその時代によって、その時代に適した導きをされると信じています。ですからそのような命令はされないと信じています。(まったく非論理的ですみません。)もし神が私にそのような命令をされても、私は殺す事は出来ないでしょう、神は、自由意志を人間に与えたと信じているからです。私は自由意志によって、神の命令に背いて、その罰を受けるつもりです。でもそのような命令は現代において神はなさらないと信じます。これは、信仰の問題なので、論議は出来ません。(逃げてしまって申し訳ありません)

最後に一つだけ、言いたいのは、宗教は理解を誤ると人類に大変な不幸をもたらします。私は神の存在を信じています。キリストが神の御子であり(モルモンは三位三体の考えです)私たちの罪を贖うために十字架にかかった事を信じています。インターネットなどで多くの人が自由に神の事に着いて考え論じ合える事は素晴らしい事だと思います。神が存在しないと言う意見を述べる事も同じように素晴らしい事だと思います。「アンチ巨人も巨人ファン」と言うように、佐倉さんも「キリストファン」かも知れませんね?(これもジョークですごめんなさい)。説明不足もたくさんあって、誤解を生む内容だと思いますが。多くの人の意見の片隅に載せていただければ、幸いです。

追伸

聖書の間違いの中に、末日聖徒の教えでは説明のつくところがいくつかあるように思えますが、多くの指摘の中の一部なので、あまり影響はないと思います。機会があればその事も少しずつ書いていきます。くれぐれも、私が、末日聖徒の考えや教えを代表するものではありませんので、ここに書いた内容については、私個人の責任において書いた事を、付け加えておきます。


(1)信仰者である限り、神の殺人命令は正当化されねばならない

神の殺人命令を正当化する、あたらしい説を紹介していただいてありがとうございます。どんなに自分では殺人は良くないことだと思っていても、信仰者は、それが神の言葉である聖書に書かれているというだけで、ありとあらゆる方法を考えて、なんとかそれを正当化しようとするものです。

オウムは神が現代でも殺人を命令することを示しました。麻原はオウムの殺人をシヴァ神の命令と結びつけていたからです。

林郁夫の手記「オウムと私」(『文芸春秋7月号』)によると、彼が「ポア」の命令を受けたとき、それが「人殺し」であるために、「本能的に嫌が」ったと彼は記しています。それでも、「(最終解脱者としての)麻原の宗教性を疑っていないので」、つまり、信仰者として行動しているために、ちょうどharuoさんが信仰者としてモーセの殺人命令を正当化するためにいろいろ工夫されたように、彼も麻原の殺人命令を正当化せざるをえなかったのです。

なぜ、信仰者は、自分の良心に逆らってまでも殺人を正当化せねばならないのでしょうか。

それは、信仰者にとって、善悪の基準が先にあって、その規準に従って善なる神があるのではなく、むしろ、神が先にあって、その神の命令が善悪の基準となるからです。したがって、信仰者にとって、神の殺人命令が善となるのは論理的必然なのです。


(2)それでは、信仰者に救いはないのか

もちろん、神の殺人命令は直接来るのではなく、モーセや麻原のような人間を通してやってきます。もっと正確に言えば、モーセや麻原は、彼らの殺人計画を、「これは神の命令である!」、と権威づけて、彼らの追従者に半ば強制したのです。じつは、ここに、信仰者のための、おそらく唯一の、救いの可能性があります。つまり、神への信仰を棄てずして、自分の良心にしたがって、殺人命令を否定する方法です。

それは、神の意志と、神の代理者であるとみなされている人間の意志とは、かならずしも同じとは限らない、という事実を認めることです。神の意志と教会の方針とが必ずしも同じだとは限らないという事実を認めること(ルターの宗教改革)です。聖書も創世記から黙示録にいたるまですべて人間が書いたものです。聖書は神の言葉だ、と言っている者たちもみんな人間です。現代の教会を運営している方々が、たとえ立派なひとびとではあったとしても、この人々の意志が完全に神の意志と一致しているわけではないように、初期のキリスト教会やシナゴクやイスラエル国家を運営した人々(彼らが聖書を書いたのである)の意志も、必ずしも完全に神の意志と一致しているわけでもないと考えるのは当然と言えるでしょう。これは、じつは、神以外のものを神としない、という聖書の根本的な教えに戻ることに他ならないわけです。

こうして、信仰者は、神への信仰を棄てることなく、もし、自分の良心に逆らう命令(神の意志とは思えない命令)であれば、神の代理者として自分の前に立ちはだかる人々の命令を堂々と拒否することができるのです。そして、なによりも、神の前で、頭をあげて自分の取った行動を釈明することができます。


(3)わたしはどうするか

わたしにとって、神は完全な沈黙者です。神の命令としてわたしの耳に実際に入ってくるものは例外なく、神の言葉の代弁者、つまり聖書の予言者や牧師や神学者や新興宗教の教祖たち、あるいは突然神の言葉と思い込む自分自身、すなわち、すべて人間の言葉です。そして、聖書を書いた人々も含めて、わたしはいかなる人間も神の意志を百パーセント反映しているとは信じられないので、わたしの良心に反する彼ら人間の命令は、断固として拒否するだろう思います。もちろん、殺人命令という倫理的良心に反する命令だけでなく、わたしが心から納得できない不合理な教えも、わたしの知的良心に反するものとして、同じように、拒否するでしょう。

法王何者ぞ、監督何者ぞ。しかり、ペテロ何者ぞ、パウロ何者ぞ。彼らは皆罪の人にしてキリストの救いに与かりしまたは与かるべき者にあらずや。彼も人なりわれも人なり、神は彼らによらずして直ちに余輩を救い給うなり。余輩は人として彼らを尊敬す。しかれども彼らはおのが信仰をもって教権を装うて、余輩に臨むべからざるなり。(内村鑑三、明治49年)
です。