ポイラ村です。

マタイ伝・マルコ伝で主の十字架の最期の言葉として言われた詩編22編の言葉についての見解を述べます。

その前に、福音書間には様々な違いがあります。それは、福音書記述者の「神理解の相違」です。ここでも、言わせていただきますが「聖書が無謬でなければ神様の言葉とは言えない」という立場を私はとりません。それでも、キリスト者としての信仰は生まれますし、むしろそうして矛盾や間違いを認めて行く事は健全な姿だと思っています。ただ、聖書は信仰によって書かれたものである。その信仰を尊重しこちらも信仰によって読まねばならないと思います。

例えば、この「我が神、我が神。何故私をお見捨てになったのですか。(エリ・エリ・レマサバクタニ)」と言う言葉をどうして主が死の直前に言われたかと言う事ですが、ご指摘のように復活の教えが後から出来て、後発のルカ伝・ヨハ伝ネとはそこで差が生まれたというのは違います。マルコ・マタイともこの後に復活の記事が続けれられているわけですから。もしも、復活の教義が後の付加であれば、ここには記されていなかったでしょう。最古の福音書が書かれた時点で既に「キリストの復活の教義」は確定していた事は明白です。そして、むしろ、わたしはこの古い福音書に書かれているからこそ主のこの絶望の言葉は本物っぽいと思えます。

イエスの信仰はゲッセマネの苦しみより後は、将に神を失った信仰であり。無信仰の信仰であったわけです。信仰を基に生きてきたイエスは神を見失い、あるいは見捨てられ将に絶望の中でその死を迎えるわけでそこで、前述の「どうしてわたしをお見捨てになるのか?」という叫びになるのです。しかし、こうした、最も苦しい状況の中でも結局は神を呼び求めるわけで、ここに「神なき信仰」「無信仰の信仰」があると考えます。すなわち、人は十字架のイエス・キリストの死と復活の贖罪を信じる信仰によって救われるのですが、この十字架の上にあった時のイエスの信仰こそが私たちに示された究極の信仰の姿であるのです。この十字架を仰ぐと言う事はその信仰の姿を仰ぐと言う事に他なりません。

さて、他の福音書の十字架の記事ですが、そちらも佐倉さんのおっしゃるように「平安と満足感にあふれる」といった内容ではないと思います。何と言っても磔(はりつけ)というのは非常な苦痛を伴うものだったからです。むしろ、肉体的に「やっと死ねる」と言ったところであったのではないかと思います。でも、おっしゃるとおりルカ・ヨハネ両福音書における最期の言葉には「勝利宣言」としても読み取れると思います。

しかし、それとて佐倉さんがおっしゃるように「敗北ではなく勝利だったという『新解釈』」を後から加えたわけではありません。分かりやすい表現を使ったにすぎません。ルカ・ヨハネといった旧約聖書基礎知識に不足している方々対象に書かれた福音書にはこうした表現のほうが親切だったと思うのです。

それと、根本の問題。敗北と勝利のことですが・・・

私は主の死は敗北であったと思っています。というか、敗北であったからこそ聖書であり、キリスト教なのだと思っています。弟子に裏切られ民衆に捨てられ最後には天の父も離れていく、それも異邦人の死刑執行方法である十字架刑で殺される。もっとも惨めな敗北であると思います。しかし、世俗で言う敗北であるからこそ神にあっては真の勝利と信じるのです。ここらあたりになると、キリスト教の話しになりますが・・・

ここまで来ると、問題となることは「聖書の間違いとキリスト教の間違い」をどのように区別していくかと言う事だと思うのです。わたしはキリスト教的な立場にありますので、佐倉さんがこのまま聖書批判をお続けになるとこのようにキリスト教をどう認識しているのか、また、いくのか、ということが避けて通れない事になってくると思います。


(1)事実は一つしかない

イエスの最後の言葉として、三つの異なる言葉を記録してしまったところに、福音書の間違いがあります。もしマタイやマルコの記述が示すように、 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というのが、イエスの最後の言葉だったのなら、それとは異なる言葉をイエスの最後の言葉として残したルカやヨハネの記述は間違っていることになります。もし、ルカの言うように、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というのが、イエスの最後の言葉だったのなら、それとは異なる言葉をイエスの最後の言葉として残したマルコもマタイもヨハネも間違っていることになります。また、ヨハネの記述のように、「成し遂げられた」というのが、イエスの最後の言葉だったのなら、それとは異なる言葉をイエスの最後の言葉として残したマルコもマタイもルカも間違っていることになります。

つまり、福音書の記述するイエスの最後の言葉は、それらが事実の記述ではなく、おっしゃるとおり、個々の信仰つまり、各記者が事実だと思い込んでいた個々の信念を書いたものに過ぎないことを示しています。事実は一つしかないからです。


(2)信仰によって書かれたものは信頼できない

信仰によって書かれたものは、事実を知ることよりも、自分の救いや他人を教化することにより多くの興味を持っていますから、事実を正確に伝えることよりも、自分の救いに関する教義・ドグマを述べたものが多く、その結果、信頼できない記述が沢山生まれます。聖書はそのことをなによりも語っています。イエスの最後の言葉に関する矛盾した聖書の記述も、その一つだと言えるでしょう。

遠藤周作氏の『イエスの生涯』によれば、イエスの最後は、次のような、三つの言葉を語ったことになっています。

イエスは何を語るだろうか。彼らは待っていた。そして遂にその日の午後イエスの最後の言葉を知ったとき、それは彼らの想像を超えたものであった。
 「主よ、彼らを許したまえ。彼らはそのなせることをしらざればなり・・・」
 「主よ、主よ、なんぞ我を見捨てたもうや」
 「主よ、すべてを御手に委ねたてまつる」
十字架上での三つの叫び――この三つの叫びは弟子たちに烈しい衝撃を与えた。

イエスは弟子たちに、怒りの言葉ひとつさえ口に出さなかった。彼らの上に神の怒りの降りることを求めもしなかった。罰を求めるどころか、弟子たちの救いを神に願った。

そういうことがありえるとは、弟子たちには考えられなかった。だが考えられぬことをイエスは確かに言ったのである。十字架上での烈しい苦痛と混濁した意識の中で、なお自分を見捨てて裏切った者たちを愛そうと必死の努力を続けたイエス。そういうイエスを弟子たちははじめて知ったのである。

(遠藤周作『イエスの生涯』新潮文庫、211〜212頁)

ここでは、ヨハネがイエスの最後の言葉であると記述した「成し遂げられた」がありません。そのかわり、ルカ23章34節(「主よ、彼らを許したまえ。彼らはそのなせることをしらざればなり」)が、イエスの最後の言葉のひとつとして、つけ加えられています。このルカ23章34節は、実は、多くの古い写本には存在せず、後代の加筆と考えられている部分で、そのために、現代語訳聖書(たとえば、新共同訳やNRSVなど)では、この部分はカッコのなかにいれられています。もちろんルカ以外の福音書にもありません。しかも、ルカを読めばわかるように、これはイエスが最後に語った言葉ではありません。イエスが処刑場について十字架につけられたとき最初に語った言葉なのです。
ほかにも、ふたりの犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった。「されこうべ」と呼ばれているところにくると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。[そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。]」

(ルカ 23:32-34)

遠藤氏はなぜ、最後の言葉でもない言葉を、イエスの最後の言葉として記述されたのでしょうか。それは、「主よ、彼らを許したまえ。彼らはそのなせることをしらざればなり」という言葉が劇的で感動的だからでしょう。また、遠藤氏は、この部分が、多くの古い写本にはまったく存在せず、後代に加筆されたされた可能性が高いという事実さえ、読者に与える努力をしていません。なぜでしょうか。もちろん、そんなことを書いてしまえば、物語の感動が薄れてしまうからです。つまり、この書が、事実を伝えようとする書ではなく、信仰を広めようとする書だからです。ヨハネがその福音書を書いたのと同じように、
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである

(ヨハネ20:31)

という宣教目的で、遠藤氏の『イエスの生涯』が書かれているからです。

まことに、信仰(救済に関する根拠のない思いこみ)によって書かれた書物は、真理であるかどうかの吟味にはとても耐えられないので、信仰(救済に関する根拠のない思いこみ)によって読まなければ、とうてい受け入れられない、というのは、当然と言えるでしょう。