佐倉哲エッセイ集

日本の国際援助(一)

--- 日本の援助の仕方は悪い? ---

佐倉 哲


友人Kは「会社で拾った」経済新聞のある記事の内容を電子メールでわたしに送ってきた。日本の国際援助が世界から非難されている、という内容のものであった。Kはこの例をあげて日本の外交は何をやってもうまくゆかない、と嘆いた。以下はこの日経記事とそれに対するわたしの批判である。


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5月7日付日本経済新聞日曜版の記事

「情け」ない援助大国ー冷戦終結が問う日本の哲学

「情けは人のためならず」--- 日本の東南アジアに対する経済援助は、相手国のためだけのものではなかった。「離陸」し始めた各国は投資先として、輸出市場として日本経済を支える役目も果たしている。最近の日本は円高による返済負担増に苦しむ各国に冷たい態度をとり、人権や環境問題では欧米ばかり気にしている。「情け」のなくなった援助大国ニッポンの行く末は ---

「円高で返済負担が急増した。日本のこれまでの援助には感謝しているが、円借款には問題が多い。新規の借り入れは停止する」。マレーシア首相のマハティール(69)は、長年続いてきた円借款の95年度分を要請しなかった。

連休に訪中した首相の村山富市(71)に、中国首相の李鵬(66)は円借款の返済負担軽減を求めた。円借款の返済負担軽減は、中国以外の各国も表明しているが正式な要請は中国が初めて。しかし、村山は「(円高は)日本経済にも大きな影響が及んでおり、為替相場の安定に努力している」とかわした。

最大の円借款受け入れ国インドネシアでも、「日本はケチ」との印象が広がっている。「ファイナンスは円借款というと、相手国に敬遠される」と大手商社マン。「長年築いてきた日本への評価が台なしになる」といまも援助問題にかかわる元外務省高官は苦々しい表情だ。

ここへ来て強まる日本の援助への「逆風」。各国で政治の民主化を求める声の強まりに伴い、援助プロジェクトを取り巻く政治、社会情勢も変化し「経済効果」だけでは相手の国内から反発を買う事態も出てきた。現地住民から反発の声が出たインドネシア・ジャワ島のダム建設では、事業を推進する現地政府ばかりでなく、援助する日本にも批判が向けられた。

欧米諸国からは、環境問題や人権問題への取り組みの遅れを批判している国に経済援助している日本の姿勢を問う動きが出ている。

政府は93年に閣議決定した援助供与の原則「政府開発援助大綱」に、「環境の保持」「軍事支出」「人権・民主化」など四項目を盛り込み、一応、批判にこたえた形にはなっている。だが、中国の軍事的拡大、ミャンマーなどの人権問題へのあいまいな取り組みは、日本の援助に対する批判を増幅させている。

日本国内では無償援助プロジェクトの受注を巡る談合の疑いで、公正取引委員会が関係企業を処分した。「援助でもうけるのは日本企業」との印象は内外に根強い。誤解を招かない厳しい運用が必要という意識が、援助関係者には依然低いことに対する警告だった。

77年、東南アジアを訪問した福田元首相(90)は援助政策の基本となる「福田ドクトリン」を発表、「東南アジア地域の安定と繁栄に貢献することが、我が国の果たすべき責任であると考えた」(「私の履歴書」93年1月29日付)。以後、日本は援助を拡大、米国を抜き世界最大の経済援助国になった。政府は95年度予算で約1兆1千億円を援助に振り向けている。

だが、経済大国日本の援助や貢献は当たり前のこと、と相手国には映るようになった。このままでは、湾岸戦争で多額の費用を負担しながら国際的に不評だった事態を援助でも招きかねない。

「発展途上国を援助する」といえば通った古き良き時代とは、もはや環境が違う。経済が自律的成長軌道に乗り、国民の民主化意識の高まりで政治情勢も変化しているアジア地域が、援助に求めるものは変わってきている。

日本も量ばかりを追わず、経済優先から質への転換を進めつつある。だが、それでも絶えない批判には、「だれのため」「なぜ」援助するのかを自問する、より敏感な対応が必要ではないか。いま、援助の「質」と「姿勢」が問われている。

以上が、問題の日本経済新聞の記事である。この記事のなかでわたしが関心を持ち批判を試みるのは、日本の援助は結局は日本自身が儲かるようなシステムになっているのではないかという西欧の対日批判をそのまま鵜呑みにしている日経記者の姿勢である。


わたしの日経記事批判

日経:欧米諸国からは、環境問題や人権問題への取り組みの遅れを批判している国に経援助している日本の姿勢を問う動きが出ている。

ボク:どうして、日本は欧米諸国のいうことばかり気にするのですか。自分が正しいと判断したことをやればいいのではないでしょうか。ヨーロッパは神様ですか。アメリカは神様ですか。

日経:だが、経済大国日本の援助や貢献は当たり前のこと、と相手国には映るようになった。このままでは、湾岸戦争で多額の費用を負担しながら国際的に不評だった事態を援助でも招きかねない。

ボク:日本が自分で湾岸戦争に負担した額が少なすぎると思えば、今からでももっと出ばよいでしょう。あなたは「多額の費用を負担」したと言っているのだから、日本は充分に湾岸戦争に援助したと思っているわけでしょう。だったらそれでいいではないでしょうか。アメリカが何を言おうが、その金を返さないのだから、役にたったわけでしょう。役にたてばそれでいいのではないでしょうか。感謝されるために援助するのでしょうか。

日経:「援助でもうけるのは日本企業」との印象は内外に根強い。

ボク:そこが日本型の援助の良いところではないでしょうか。欧米型の援助はキリスト教の伝統です。それは無償援助が援助の基本で、そこには上の者(つまり、神の代理)が下の者を「助けてやる」という無言の傲慢さがあります。日本の援助の仕方は、困ったときはお互い様式の相互援助が基本ですから、それは「今はたまたま自分が助ける側にあります、わたしが困ることになったら助けてくださいヨ」というような、何らかの報酬を期待する援助です。それは、助ける自分も助けられる相手も同じ地平にいると考えているからです。

欧米型の無償援助は助けられた側の者の心を傷つけます。深い劣等感を植え付けます。主従関係を作り上げます。助けられた者は助けた者に永遠に頭があがりません。無償援助の動機が純粋であればあるほど、そうなります。日本型の相互援助は相手方から報酬を期待するので、助けられ側の者の心を傷つけずに済みます。劣等感を植え付けません。助ける前も助けた後も対等関係を保つことができます。これは優れた援助の仕方です。

もちろん、日本企業が経済的見返りを計算して援助をするとき、それは困ったときはお互い様式より少し低次元ではありますが、それでも欧米型の無償援助よりは、はるかに優れています。なぜなら、助けられた側は、「なんだ、要するにあいつらは自分たちが儲けるために俺たちを助けたのだ」と言って、自分を助けた者を嘲ることが出来るからです。これはすばらしいことです。感謝されない援助こそが日本人にとって理想的な援援の姿だからです。それゆえ、日本企業が経済援助をするときは、むしろ、日本人は自分ちがアメリカ人のような「無償援助の善人」ではないことを宣言し、経済的見返りを期待していることを明白にし、その準備の後ですべきだではないでしょうか。

立川談志さんがある雑誌で言ってます。「何でこんな風に他国を助けることが流行ったかネ。どうもアメリカのせいみたいに思えるんだがネ。あの国ゃ、お節介やだから、他人を助ける、というより、助けた己でないと生きていけない連中なのだろう」と。鋭い観察です。無償援助というのはキリスト教的人生観が要請するものなのです。助けること自体に自分の人生の意義を見い出すのです。それは結局、助けられる人の存在をいつまでも必要とする人生観なのです。

「援助でもうけるのは日本企業」などと批判したがる日本のマスコミは、いつのまにかアメリカかぶれしているのではないでしょうか。日本もいいかげんにアメリカのまねをすことはやめてほしいものです。

談志さんはさらに言います。「基本的に人間他人を救えるわけがない。経済援助は救いにならない、ということが判らナイのかいい年コキやがって政治家よ」と。立川談志さんような優れた「哲学者」が日本にいるかぎり、日本もまだ捨てたものではありません。



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