空の意味を知るためには「自性」とは何か、ということがどうしても明らかにされねばなりません。「すべてが空である」とは「すべてに自性が欠如している」ということだからです。したがって、空の理解とは自性の理解である、といっても過言ではありません。



空と自性

ナーガールジュナによれば、空とは、「ものが究極的には存在していないこと」を指す言葉でもなく、また、「ものの存在の仕方が幻想のように主観の創作にすぎないこと」を指す言葉でもなく、また「存在の仕方が何となくぼんやりしていること」を指す言葉でもありません。そうではなくて、空とはものに自性が欠如していることを指す、極めて意味の明確な言葉です。

自性とは「スヴァバーヴァ」(svabhava)というサンスクリット語の漢訳です。直訳すれば「自己自身の存在」というふうにでもなるでしょうか。現代日本語訳では「実体」と訳されることが多いようです。英訳では "self-existence" とか "own-being" あるいは "substance" などと訳されています。いずれにしても、ときどき説明書にあるように、諸々のものはあるように見えるだけで真実には無いのだ、というようなこととは全く違います。例えばナーガールジュナは、空が、何もないことを意味しているのではないことを表現して、

反論者は言う。--- ではいったいただ無のみなのか、それともなんらかのものがあるのか。これに対して答えて言う。「ある」と。(Sunyata Saptati 空七十論40-42のナーガールジュナによる解説文)
と、断言しています。「どのように(ある)かと問うならば(答える)」と、彼は論を続けるのですが、結局、空とはものが自性として成立していないこと、つまり、存在しているものには自性がないことである、と説明します。このことに関する言明は非常に沢山あります。たとえば、
あらゆるものの自性は、原因であれ、条件であれ、その合体であれ、どこにも無いのだから、空である。(空七十論3)

眼は自性として空であり……、物体もまた同じ有り様で空であり、その他の知覚の場もおなじ有り様で空である。(同上53注解)

条件として生起しているから、思惟の対象も自性が空であり、一方、思惟もまた自性が空である。(同上61注解)

それら存在は自性が空である、とありのままによく知るならば、迷いは生じない。(同上65注解)

自性として、「存在」があるのでもなく、「無存在」があるのでもない。原因と条件から生起した「存在」や「無存在」は空である。(同上67)

ものはすべて自性が空であるから、ものの「依存関係による生起」(縁起)を無比なる如来は教示された。究極の真理はそれに尽きている。(同上68、69)

もしわたしの言葉が、質量因と補助因とをあわせた全体のなかにも、それらから独立したものとしても存在しないならば、自性が無いことになるので、ものの空性が証明されるではないか。(廻諍論21)

もし、ものが自性として存在するならば、質量因と補助因とを取り除いてしまっても、それは存在するであろう。しかし、実際にはそのような場合には、ものは存在しない。それゆえに、自性はないのであり、自性がないから空である、と宣言されるのである。(同上注解)

自性がないにもかかわらず、自性があるように見えるのは、迷妄によるのである。(六十頌如理論26、27の注解)

というような表現を数多くなしています。このようにして、「ものは自性が空である」とか「ものは自性として存在しているのではないから空である」とか「ものには自性がないから空である」というふうな言い方で、空の意味がものに自性が欠如していることであることを明確にしています。

さて、このようなナーガールジュナの「空」という言葉の使い方は、現代の日本人の「空」という言葉の使い方とあまり相違がありません。たとえば、私たちは「空き部屋」というような使い方をしますが、これは「部屋が無いこと」を意味するのではなく、「部屋に住人がいないこと」を意味します。新しく建設されたばかりのアパートに行けば、管理人さんは「部屋はみんな空っぽです」などというかもしれません。同じように、ナーガールジュナは、「すべてが空である」と語るとき、すべては存在しないと主張しているのではなく、すべて存在しているものには自性という「住人」などいないのだ、と主張しているのです。このことが納得されなければ、ナーガールジュナが、単に「存在しない」という表現をしている場合に、「自性として存在していない」ことを意味していたことが理解できなくなります。

さて、このように見てみますと、空の意味を知るためには「自性」とは何か、ということがどうしても明らかにされねばならないことがわかります。「すべてが空である」とは「すべてに自性が欠如している」ということだからです。空の理解とは自性の理解である、といっても過言ではありません。


自性の意味を知るために

それでは、自性(svabhava)とは一体何なのでしょうか。語源的にはすでに述べたように、「それ自身の存在」あるいは「自己存在」を意味します。しかし、言葉の本当の意味は、それが文脈のなかで如何に使われていたかを知ることが必要です。そのためには、ナーガールジュナ自身の著作だけでなく、ものには自性があると主張した人々の思想、つまりナーガールジュナの論敵の思想を調べてみることが必要となります。ナーガールジュナの論敵は仏教内外にいますが、その中心的な存在は同じ仏教徒であるアビダルマ論師たちです。例えば、ナーガールジュナは、論敵が彼ら自身のことを「事物(ダルマ)の部位に通じた人々」(『廻諍論』7)と呼んでいる言葉を引用していますが、これはナーガールジュナの論敵が、この書においてはアビダルマ論者たちであったことを示しています。その中でも特に、ナーガールジュナの主要な論敵は、当時もっとも勢力を誇っていた仏教一派、サヴァスティヴァーダ派(説一切有部)の論師たちだったと言われています。おそらく、この仮説は正しいと思われます。何故なら、「一切は空である」という思想が出現するには、それに関係する歴史的背景が必ずあったはずであり、サヴァスティヴァーダ派こそまさに「一切は有る」と説いた仏教宗派だったからです。しかも、この派は、ナーガールジュナが空という言葉で否定した自性という概念を非常に高く評価し、ものの真相を知るとは、ものの自性を知ることであると考えており、彼らの理解する宗教的目的である「悟り」、つまり無知からの解放とは、実に、ものの自性を知ることと深く関連していたと思われるからです。

ところで、本論においては、「スヴァバーヴァ」(svabhava)というサンスクリット語の漢訳である、「自性」という言葉をわたしは使用しています。現代語訳では、通常「実体」と訳されるのですが、聞き慣れた「実体」という言葉を使わず、あえて「自性」というあまり聞き慣れない古い漢訳の言葉をそのまま使用しているのは理由があります。自性という概念は、本論に関して言えば今のところまだ意味不明のものであり、それは数式における変数「x」のようなもの、あるいは読み始めたばかりの推理小説における正体不明の犯人のようなものですから、ある特定の意味を持つ言葉を使うよりは、意味の不鮮明な「自性」という語を使用した方が適切だ思われるからです。たった一つの等式ではわからないxの値も、幾つかの等式を組み合わせることによって、xの値が分かってくることがあります。また、少し読んだだけでは見当のつかない犯人の正体も、推理小説を読み進んで行くうちに、その姿が浮かび上がってゆくことがあります。そのように、「自性」という言葉の様々な使用法を見て行くうちに、その意味の「姿」を浮かび上がらせようというわけです。


自性に関する表現

まず、中論15章から、すこし引用してみます。

自性が、もろもろの縁と因とによって生ずると言うことは正しくない。自性が縁と因とによって生じたものであるとするなら、つくられたものである、ということになるであろう。(中論15:1)

さらにまた、どうして、自性がつくられたもの、ということがあるであろうか。なぜならば、自性とは、つくられたのではないものであり、また他に依存しないものなのであるから。(中論15:2)

「縁と因」というのは現象を生じさせる「条件や原因」のことですが、自性は条件や原因なし存在している、といいます。また、その理由として、自性はつくられたものではないからだといいます。そして、自性は他に依存しないともいっています。つまり、ナーガールジュナによれば、自性は自立自存をその特徴としていることがわかります。

さて、もし自性がそのような性質のものであるとすれば、その存在は無条件に成立していることになりますから、当然、自性は常住かつ不変不滅ということになります。そこで、

自性があれば消滅することがない。(空七十論16)
とか、「業」を例にとって、
もし、業が自性としてあるならば、それから生じた身体は恒常となるであろう。それゆえ業も個我(アートマン)となるであろう。(同上35)
とか、ナーガールジュナ語ります。ここでのナガールジュナの批判は、他宗教にたいする批判ではなく、仏教内批判です。というのは、よく知られているように、仏教の基本思想は、無常や無我の思想ですが、無常とは「ものはすべて変滅する」という考え方であり、無我(アン・アートマン)とは「人間も無常であり、永遠不変の魂のようなもの(個我、アートマン)など無い」という考え方です。ナーガールジュナの自性批判の論理は、自性を認めれば、自性は恒常不滅をその性質として持っているのだから、無常無我の仏教の基本思想に矛盾するようになる、というものです。だから、
もし、有を主張する人々が存在に執着しており、同じ道にいるとしても、そこにいささかの不思議もない。(六十頌如理論40)

ブッダの道によってすべては無常である、と言う人々が、論難をもって存在(もの)に愛着していることは奇異である。(同上41)

と、ナーガールジュナは批判するのです。ここで、「有を主張する人々」というのは、インド古来のブラーマニズムやその伝統を受け継いだヒンズー教を信じる人々のことです。彼らが、人間は恒常不滅の魂(個我、アートマン)を内在している、と信じていたことはよく知られています。また、ブッダはそういうインドの伝統的宗教の立場に真っ向から批判をむけて、無常無我の思想を説いて新しい思想が誕生させたこともよく知られています。そこで、ナーガールジュナは、ヒンズー教徒たちが恒常不滅の魂に執着するのは当然だけれど、ブッダの教えを信じると自称する仏教徒自身が、ものには恒常不滅の自性なるものがあると信じていることは実に「奇異である」といって仏教内批判をおこなっているのです。つまり、ナーガールジュナは、自性というものを、ブッダが否定したアートマン(個我)と同類のものと見なして、それを否定していることがわかります。
存在 内在すると誤って信じられているもの 真実
ブッダ 人間 アートマン(個我=恒常不滅の魂) 無我
ナーガールジュナ もの スヴァバーヴァ(自性) 無自性、空
このことは、さらに次のような彼の言葉から、さらに確証されます。
存在によく通じているひとたちは、存在は無常であり、欺く性質があり、空虚であり、空であり、無我であり、したがって寂離であると見る。(六十頌如理論25)
つまり、空であること、無自性であること、無我であること、これらはナーガールジュナにとって同類なのです。


「すべて」とは

ここで、「すべては無常である」とか「すべてのものは空である」というときの、「すべて」とはなにか、「もの」とはなにか、すこし説明を必要とします。いま、「すべて」あるいは「もの」に、自性なるものがあるかないか、が問題となっているからです。いままで、単に「もの」あるいは「事物」などと訳してきた言葉は、サンスクリット語では「ダルマ(dharma)」と呼ばれ、それは通常「法」と漢訳されるている言葉です。仏教に限らず、一般的に、「ダルマ」という語の意味は「教え」「真理」「宗教的道徳的規範」「社会的義務」などを意味しますが、それらに加えて、この語は仏教にとって「もの」という意味を持つようになっていったのです。従って「一切法」という仏教語は「すべてのもの」と訳されます。

サンユッタ・ニカーヤという、いわゆる原始仏典の一つである経典集に、「一切」という名の短いお経が収められています。それによるとブッダは、サーバッティという所に滞在していたとき、次のように教えたというのです。

みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(Sanyutta-Nikaya 33.1.3)

これが実際にブッダ自身の言葉かどうか確定する術はありませんが、初期の仏教の世界観を知るうえで、大変貴重なお経のひとつであることは確かです。この世界観には、少なくとも二つの注目すべき特徴があります。一つは、存在を認識主体とその対象というペアで見る視点です。もう一つは、人間の経験的あるいは知的能力を超えた領域に関しての主張は控える、という態度です。

このような彼らの世界観の特徴は、彼らの人間観にも見られます。それが有名な五蘊説です。蘊(うん・おん)というのは、「スカンダ」(skandha)の漢訳ですが、「集まり」を意味します。人間存在は五つの集まり(蘊)から成立している、という見方です。この五つの集まりというのが「色・受・想・行・識」です。「色」(ルパ)の語義はまさに英語の「カラー」ですが、一般に肉体あるいは物質一般を意味します。認識主体の対象すべて(つまり物質世界)を、視覚対象である色が代表しているわけです。この「色」の対極にあるのが「識」です。「識」とは意識あるいは心を指し、まさに認識主体そのものです。「受」は、「痛い」とか「冷たい」などの感受、すなわち感覚のことです。「行」とは、方向性を持った意識のことで、意志を意味します。「想」は(ある対象や現象を)想うことです。そうすると、「色・受・想・行・識」という五つの集まりは、バラバラの集まりではなく、そこにはひとつの明確なオーダーが見られます。つまり、一方では、物質から感覚へ、感覚から想いへ、という、いわば認識対象からの刺激の方向性があり、他方、心から意志へ、意志から対象の想いへ、という意識の方向性があります。五蘊説による人間観とは、このように、人間存在を認識主体と認識対象の相互関係として見る視点のことに他なりません。五蘊とは、この関係を認識のプロセスの観点から分析した構成要素です。そしてまた、ここにも、人間の経験や認識能力を越えたものは一切考慮に入っていません。つまり、この五蘊説の人間観にも、認識主体とその対象の相対的関係からものごとを見る視点と、超越的存在に関しては言論を差し控えるという、初期の仏教の世界観を支配していた同じ原理がみられます。

【対象】色(物質)マ 受(感覚)マ 想(思い) ミ 行(意志)ミ 識(意識)【主体】

しかし、この「色」を肉体に限れば、これは人間存在を分析したものですが、物質一般とみれば、世界そのものとなります。したがって、「一切」とは、この五蘊のことである、ともいえます。したがって、「一切のものはすべて自性を持っている」とか、「一切のものはすべて空である」など、と仏教徒がいうときの「もの」(ダルマ、法)とは、このようなかたちで存在を分析したときの五蘊のことです。だから、たとえば、現代でもポピュラーな経典のひとつ『般若心経』のなかでも、「五蘊皆空なり」とか「色は即ちこれ空、空は即ちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし」というふうに表現されているのです。後代になると、このような分析はアビダルマ論師といわれる学僧たちによって、さらに細分化され、ナーガールジュナの時代になると、存在を七十五の要素(ダルマ、法)に分ける学派も現れてきます。それが説一切有部です。


ダルマ(法)と自性

さて、このアビダルマ論師たちは、存在を分析しただけでなく、その構成要素たるダルマ(法)の一つ一つに自性が有ると主張しました。この自性説は、仏教思想史における新しい展開であり、初期の存在分析にはなかったものです。しかし、アビダルマ論師たちは深く自性の思想を追求していきました。

一切のダルマが皆、自性を含む、ということが、「含む」という語のすぐれた解釈である。(「大毘婆娑論」卷59)

問う。なぜ「諸々のダルマはそれぞれ自性を含む」と(アビダルマ経典に)書いてあるのか。答える。自性はそれ自身、存在し、実在し、知ることが出来るから、「(ダルマは)自性を含む」と説いてあるのである。自性はそれ自身、(ダルマの)外にあるのではなく、(ダルマから)離れて存在しているのでもなく、(ダルマと)別のものでもなく、つねに不空であるがゆえに、「(ダルマは)自性を含む」と説いてあるのである。自性はそれ自身、過去に存在しないということも、現在に存在しないということも、未来に存在しないということもあり得ず、常に存在するのであるから、「(ダルマは)自性を含む」説いているのである。自性はそれ自身、増加もせず、減少もしないから、「(ダルマは)自性を含む」説いているのである。諸々のダルマが自性を含むというのは、例えば、手が食物を掴んだり、指が着物を摘んだりするのとは違うのである。(ダルマは)それぞれの自体(自性)を執持し、決して散壊させることがないので、「(ダルマは)自性を含む」と説いているのである。(同上)

諸々のダルマが自性を捨てないことが、「(一切のダルマが皆、自性を)含む」という言葉のすぐれた解釈である。(「大毘婆娑論」卷149)

このように、存在を形成している構成要素であるダルマにはすべて自性が内在していて、ダルマと自性が切り離せない関係にあることを、アビダルマ論師たちは強く主張しています。とくに、ここには、自性が、過去にも現在にも未来にも、常に存在していると主張していますが、このことを「三世実有」といいます。これは自性が恒常性をもつことを意味しています。たとえば、「ふた」(蓋、ニヴァラニャー)と「おおう」(覆、ムラクシャ)についての、アビダルマ論師の説明をみると、「ふた」というものは一般に「おおう」ものであるが、「おおう」ことのない「ふた」がある。それは何かというと、過去と未来の「ふた」である、という論を展開します。
過去(のふた)は、(おおう)作用がすでに終わっており、未来(のふた)は、(おおう)作用をまだ持っていない。(「大毘婆娑論」卷35)
ところが、「おおう」の自性は恒常であって、未来・現在・過去の三世を通じて存在するというのです。
「おおう」(の自性)は三世を通じて存在する。なぜなら、すべてダルマの自性は三世を通じて存在するからである。(同上)
このようにして、恒常性が自性の特質のひとつであることが明確にされています。

さらに、自性は増減もしない、という表現からも、自性が不変不滅性をもつものでもあることが暗示されています。この点については、次のような、アビダルマ論師の論議も残されています。

問う。諸々のダルマの自性に転変(変化)というものはあるのか。もし転変ありといえば、なぜ「ダルマは自性を捨てず」と説くのか。もし転変なしといえば、いったい、なぜ「住異」(ものの存続と変化。ものが無常であること)を説くのか。

答える。諸々のダルマの自性に転変はない。

問う。ならば、なぜ「住異」があると言うのか。

答える。「住異」というのは「老」の別名であって、転変のことではないと知るべきである。また、「因縁(原因や条件)があるから転変なし」とも言われ、「因縁があるから転変あり」とも言われる。「因縁があるから転変なし」というのは、すべてのダルマ(一切法)は、それぞれ自体・自我・自物・自性・自相に住していて、転変がないことを意味する。また、「因縁があるから転変あり」というのは、いわゆる、つくられたものは、勢いを得るときに生じ、勢いを失うときに滅す。力を得るときに生じ、力を失うときに滅す……。それで、「転変あり」というのである。別の言い方をすれば、転変には二種類あって、ひとつは「自体(自性)転変」であり、もうひとつは「作用転変」である。「自体転変」に関して言えば、転変ということはあり得ない。ものの自体(自性)に変化は認められないからである。「作用転変」に関して言えば、転変はあるというべきである。ダルマというものは、未来にはまだその作用が無いのに、現在に至るときにその作用が有るようになり、過去に入るとその作用がなくなるからである……。このようにして、転変と住異に関して矛盾があるとする批判は排斥されるのである。(「大毘婆娑論」卷39)

さらに、自性は無原因かつ無条件で、あらゆるダルマに存在していることを示して、
(ダルマが)自性を含むのは、時間と原因を待たずに含むこと意味しており、それは究極の意味における「含む」ことである。「時間を待たずに」とは、諸々のダルマが、時には自性を持たないということがないことをいう。ダルマは一瞬たりとも自体(自性)を捨てないからである。「原因を待たずに」とは、諸々のダルマは原因なしに自性を含んでいることを言う。原因や条件を待たずに自体(自性)が有るからである。もし、すべてのダルマを観察したいと願うなら、先ずもって、ダルマが自性を含んでいることの意味を知るべきである。(「大毘婆娑論」卷59)
と、説きます。このようにして、アビダルマ論師たちによれば、存在を構成している諸々のダルマには必ず自性があり、ダルマと自性は切り離せないこと、そして、自性は、原因もなく無条件的にダルマに存在し、未来・現在・過去を通して存在する恒常的かつ不変的な何かです。ここには、まさに、ナーガールジュナが批判する自性の恒常性、不変性、不滅性、自立自存性などの性質が明らかに認められます。


アビダルマ論師は「無常」を否定したか

ナーガールジュナは、以上のような自性の性質ゆえに、自性の思想が仏教の基本的思想である無常・無我の思想と相容れない矛盾した思想である、と批判したのです。しかし、アビダルマ仏教の思想家たちが「無常無我」の思想を否定している、というのはナーガールジュナが彼らに浴びせた批判であって、アビダルマ仏教の思想家たち自身はもちろん、真の仏教徒としての自負を持ち、「無常無我」の思想を否定しているとは思っていません。むしろ、彼らから見れば、ナーガールジュナの思想こそ、ブッダの教えを否定するものだったのです。だから、例えば、次のようなアビダルマ論師の言葉が、ナーガールジュナに対する批判として記録されています。

「すべては無常である」といわれており、「すべては無常である」と示すことによって、非空であることも示しているのである。(空七十論58解説)
つまり、広く経典には「すべては無常である」といわれている。このことは、無常なる「すべて」がある、という意味を含んでいる。だから「すべて空である」というのは間違いである、と批判するのです。これはデカルトを思い出させる論理です。今、自分が本当に存在するかどうか考えているが、そう考えている限り、考えている主体である「わたし」が存在することは確かである、という例の「我思う、ゆえに我あり」の論理です。もし経典の「すべては無常である」という言葉が真実であるとすれば、「無常である」ところの主体が存在するはずである。それゆえ、この「すべて」は存在するのでなければならない。これが彼らの論理です。

さらに、ダルマという存在を自性と作用とに分析し、ものの自性は恒常かつ不変不滅であるが、その作用が変化するから、自性の恒常性とダルマの無常性は矛盾しない、と批判に答えています。同じ論理は様々なところで応用され、例えば、「人」と「人の持つ技芸」との関係とのアナロジーによっても説明されています。つまり、同一人物が沢山の技芸を持つことができるように、同一の自性を持つダルマが転変することに、何の不都合もないと説明します。ある人物が、あるとき料理をしていたが、そのあと、家を建て直す大工の仕事をはじめたとすると、ここには料理人と大工さんという二人の別々の人物が存在するのではなく、同一人物が、あるときは料理人として作用し、ある時は大工として作用しているにすぎない。そのように、同一の自性をもつダルマに様々な変化があり得る、というわけです。このようにして、アビダルマ論師の立場から見れば、すでに述べた数々の自性の性質にもかかわらず、決してそれは、仏教の基本思想である無常の思想を否定したものではなかったのです。


自性を知ることの大切さ

いったい、なぜこんなにアビダルマ論師たちは、自性というものを重視したのでしょうか。それは、仏教の説く宗教的解脱にもっとも必要なものは、無知を克服する智恵であり、ものの真相をよく知るとは、そのものの自性を知ることであると、彼らが考えていたからです。

もし、すべてのダルマを観察したいと願うなら、先ずもって、ダルマが自性を含んでいることの意味を知るべきである。(再出)

もし、もろもろの縁の自性が実在しないなら、すべてのダルマの深い意味は失われてしまう。(「大毘婆娑論」卷55)

アビダルマは、諸々のダルマの性相を正しく分別し、また、その意味に違わないことのみを欲する。(同上、卷189)

心の自性を観察することが心を善く知ることである。(同上、卷180)

問う。もろもろのダルマが自性を含むと観察する時、いかなる勝利があり、どのような益を得ることが出来るのか。答える。「我想」(自己に恒常不変の個我があると信じる迷妄)や「一合想」(存在は五蘊の構成要素に分別できず、全体が一つとしてあると信じる迷妄)を除去し、「法想」(自己をダルマによって理解する考え方)や「別想」(存在は五蘊の構成要素に分別できるという考え方)を修得する益に満たされる。つまり、我想や一合想(などの誤った考え方の)者は、どん欲・怒り・無知などの煩悩が増加し、それらが増加するがゆえに、生老病死や嘆きや憂鬱などのさまざまな災難から自由になることが出来ない。もし、我想や一合想を除去し、すなわち、色法(物質世界)も無色法(非物質世界)も、久しからず磨滅すると観じ、すべてのダルマは風や砂のごとく散壊すると総観すれば、これによって、悟りの原因となるものを得ることが出来る……。瞑想の境地において、下方にあれば中に生じ、中にあれば上に生じ、上にあれば智恵を発し、悪しき世界を離れ、悟りを得、永遠の平穏を得る。諸々のダルマに自性が含まれると観察する時、このような勝利と益を得ることが出来るのである。(同上、卷59)

このようにして、アビダルマ論師たちは積極的に、宗教的情熱をもって、自性の思想を展開しています。古来より、インドだけでなく、広く世界の宗教を見渡してみると、人間に降りかかる災難が与える心の苦痛から、人を解放する教えとして、真の自己は、やがて滅び行く肉身ではなく、自己に内在する眼に見えない、永遠に存続する魂である、と教えて、人々の心に安らぎを与えようとしてきましたが、ブッダの宗教はそれを否定する数少ない(あるいは唯一の)宗教として歴史に登場しました。あらゆるものは変滅するのがその真相であり(無常)、現象の背後に眼に見えない永遠の魂のようなものがあるとするのは人間の妄想である(無我)という思想を展開しました。ナーガールジュナは、アビダルマの自性の思想に、同じ様な妄想を見て、自性批判を展開するのですが、アビダルマの思想家たちから見れば、自性の存在こそ無常の現象を支えているものであると考えて、ものの自性を知れば世界が無常であることが悟れる、と主張したのです。


まとめ

以上、自性に関する、ナーガールジュナや彼の主要な論敵であるアビダルマの思想家たちの主張を幾つか見てきました。それをまとめてみますと、次のようになると思います。

(1)存在の構成要素であるすべてのダルマ(法)のひとつひとつに自性は必ず存在する。
(2)自性は作られたものではなく、原因も条件もなく、無条件に自立自存する。
(3)自性は変化せず、消滅することもなく、恒常で不滅である。
(4)自性は未来、現在、過去の三世を通じて存在し、存在しないということは、一時もない。
(5)自性を知ることが、それが所属するもの(ダルマ)をよく知ることである。
(6)アビダルマ論師の立場では、自性があるから、無常の現象もあり、無我も説明できる。
(7)ナーガールジュナの立場では、自性は無常の現象や無我の思想と矛盾する。
(8)もの(ダルマ)に自性がないことを、ナーガールジュナは空という語で表現した。
このような自性を、存在の真相としてアビダルマ論師は説き、ナーガールジュナはそれを否定しました。ナーガールジュナが自性の思想を否定したのは、それが仏教の基本思想に矛盾すると考えたからですが、とくに、すべては変化し無常であること、したがって人間も無常であり、恒常不滅の個我(アートマン)など無い、という仏教の基本的思想に矛盾すると考えました。しかし、ナーガールジュナは、単にそれだけで、自性の思想を否定したのではありません。何故、自性が成立しないか、論理的に説明しようと試みます。それが、かれの縁起説です。縁起(プラティーチャ・サムットパーダ)とは、「依って起こること」を意味しますが、ものが自立自存しているのではなく、様々な条件や原因に依存して成立していること、を意味します。この縁起の思想は無我や無常の思想とともに、仏教成立の原初から、仏教の基本思想のひとつですが、ナーガールジュナは自性の思想に対して、縁起の思想を対立させ、自性を否定しようとします。次の章においては、この縁起説について考察したいと思います。