わたしは空の思想に関する解説書をしばらくおいて、自分の目で確かめることにした。つまりナーガールジュナ自身の書に直接いどむことにした。



空の思想の解説書の問題点

空の思想に関して、アメリカの著名な仏教学者リチャード・ロビンソン博士は、「この主題に関する幾つかの優れた研究を調べてみた結果、中観派について『わたしたちはまだ知らない』とはもう言えない」と語られた。中観派とは空の思想を説いたナーガールジュナ(竜樹あるいは龍樹と漢訳される2世紀の仏教哲学僧)の学派につけられた名前であるが、ロビンソン博士は、長年の多くの仏教研究者の努力の末、いままで最も難しいと言われていた中観派の空の思想の実体がついに明らかになった、と宣言されたのである。

しかし、わたしの経験はまったく逆であった。ナーガールジュナの思想に関する研究をいくら読んでも、いったい彼の説く「空」(スーニャタ)とは何なのか、いっこうに明確になることはなかった。むしろますます分からなくなっていったのである。例えば、コロンビア大学のW.T.ド・ベリー教授は『インド、中国・日本の仏教伝統』の中で、空の思想を説明して、次のように説明されている。

現象世界には本当に存在しているものはない。すべては究極的には非実在 (unreal) である。したがって、世界に関するすべての合理的理論は、非実在の思想家が非実在の思考によって展開した非実在のことにかんする理論である。このような論理によって、空が究極的リアリティであると説く中観派の思想でさえも非実在であると言えるが、そういう中観派の思想への反論自体もまた非実在であることになる。このようにして、それは無限遡及をつづける。
このような「空」の説明は「空」について何も明らかにするものではない。なぜなら、それによって「空」を説明しようとされている「非実在」(unreal) という概念自体が、いったい何を意味しているかさっぱり分からないからである。このような解説書は空の思想に関してむしろますます混乱をもたらすものであると言えるであろう。わたしたちは、このような説明を聞いた後、「空」についてだけでなく、こんどは「非実在」に関しても、無知の暗闇に取り残されることになるからである。

解説書にたよることの問題はもうひとつあった。それは、それら研究の結論があまりにもかけ離れていて、まったく正反対の主張さえなされていることが少なくなかったからである。例えば、ある一連の学者(Murti, Conze, Kalpahana など)の主張に依れば、空の思想は絶対主義であると言うのであるが、他の学者(Stcherbatsky, 長尾雅人 など)によれば、空の思想は相対主義であると言う。さらに他の学者(de Barry)によれば、空の思想はニヒリズムであるといい、他の学者(中村元)によればは空の思想はニヒリズムではないと主張する。その他にも、空の思想は否定主義である、空の思想は唯名論である、等々、数え上げればきりがないほど、空の思想はさまざまな思想として解釈されているのが解説書の現実であった。


わたしの方法論

そこで、わたしは空の思想に関する解説書をしばらくおいて、自分の目で確かめることにした。つまりナーガールジュナ自身の書に直接いどむことにした。そのためにサンスクリット語も学ぶことにした。たとえ、翻訳書にたよるとしても、原書の言語の基本は知っておかねばならないと思ったからである。しかし問題は方法論である。どのようにして空の思想に迫るべきか。

わたしは空の思想に関する数多くの解説書を読んでいるうちに、それらの持っている方法論の問題点の幾つかに気がついていた。第一の問題点はテキストの選択であった。ナーガールジュナは後代の大乗仏教各派に深く尊敬されるようになって、ナーガールジュナは各派の祖とし崇められるようになり(「八宗の祖」と呼ばれる)、後代に作られた数多くの仏典がナーガールジュナの書として伝えられるようになったのである。幾つかの解説書は、明らかにナーガールジュナの書と認められていない書をもとにして解説を進めていたが、なかには、当時ナーガールジュナを批判していた学派の言説をナーガールジュナ自身の言説としている説明書さえもあった。このように、空の思想を解説する多くの書が文献学的考察を欠いていたことが、空の思想をわかりにくいものにしていた第一の原因であったとわたしには思われた。

そこで、わたしの最初の作業は、まずナーガールジュナの書として伝えられる多くの仏典を、確実にナーガールジュナの書であると思われるものと、確実にナーガールジュナの書ではないと思われるものと、どちらか決定できにくいもの、という三種に分類することであった。これにはすぐれた研究があった。筑波大学の三枝教授やデンマークのC.リントナー教授の業績である。わたしは両教授の研究の成果を土台に、ナーガールジュナの書であると指摘されているものの中から、さらに次の書を厳選した。それはナーガールジュナの代表作である『中論』の形式とスタイルと内容にもっとも近いことを選択基準にした結果である。そのようにして、『中論』(Madhyamikakarika)、『空七十論』(Sunyatasaptati)、『六十頌如理論』(Yukutisastika)、『廻諍論』(Vigrahavyavartani)、『広破論』(Vaidalyaprakarana) の五書をわたしの研究の中心テキストと決めた。

空の思想の解説書を読んでいるうちに気がついたもう一つの方法論の問題点は、文脈の問題であった。実にあまりにも多くの書が「空」という概念を、それが現れている背景や文脈から抜き取り、解説者自身が慣れ親しんでいるシステムのなかに埋め込んで説明を試みるものであった。とくにこれは哲学者による空の解説によくみられる現象であった。たとえばヘーゲルは「根本にある教義は、無が万物の原理であり、一切は無から生じ、無にかえってゆく、というものです」(『歴史哲学講義』)などと説明している。また ハンス・クングは「ナーガールジュナにとって絶対自体が空であり、相対的なものにすぎない言葉や概念をこえたものであって、絶対者は言葉や概念では理解できないものである」(『神は存在するか』「無名の神」)と説明を試みている。ヘーゲルは弁証法の理屈のなかで「空」の概念を説明し、カトリックの神学者であるクングは「神=絶対者=空」の等式によってこれを説明をしようとしたのである。

日本の学者や僧職者による空の解説も同じ様な方法をとっている場合が少なくなかった。とくに、いわゆる京都学派(西田幾太郎とその亜流)の哲学に強い影響をうけている人によると、空とは「無」あるいは「絶対無」ということになっていた。また、西欧哲学の矢島羊吉教授が『空の哲学』においてヘーゲルやブラッドリーやニーチェをかり出されたのも「彼らの哲学がナーガールジュナの空の哲学を理解するのに役立つ」という理由からであった。以上のような例では、空の思想を解明しようというより、哲学者が自己の思想を語るのに、空の概念を利用しているにすぎない場合が多く、それはそれ自体で意義のあることではあっても、空とは何かを学ぼうとする者にとってあまり役立つよものではなかった。

日本の学者や僧職者による空の解説には、別の問題もあった。西欧思想対東洋の思想という図式を描いて、東洋の思想も西欧の思想と同じぐらい、あるいは、それ以上に素晴らしいのだ、という劣等感を裏返しにしたような、疑似優越感が見えかくれするような、空の思想の解説が少なからずあった。その顕著な例は、ナーガールジュナを言語哲学の先駆者であるかのごとく語るものであった。よく知られているように、20世紀の哲学の花形はヴィッゲンシュタインをはじめとする言語哲学であった。西欧が今世紀に入って初めて考えるようになった哲学における言語の問題を、東洋の哲学者であるナーガールジュナは、2千年近く前に、すでに理解していたのである、というわけである。もちろん、ナーガールジュナを現代思想の先駆者であるかのごとく語るものは東洋人には限らなかった。ロバート・サーモン教授によれば、ナーガールジュナはアインシュタインの相対性原理の先駆者でもあったのである(The Holy Teaching of Vimalakirti)。告白すれば、東洋人であるわたしは、この種の説明に最初のうちは惹かれてしまったが、やがて、インチキ臭いと思うようになっていった。

また、この文脈からの離脱ということに関して、別のシステムを持ち込むのではなく、それ自身によって「説明」を企てようとするものさえあった。例えば、真野龍海教授の論文には「空ずることによって空を説明する」(『龍樹教学の研究』「龍樹における般若経の理解」)というような、何か深遠そうな言葉が述べられているが、それは単なる同語反復にすぎない。「空」がわからないから説明を必要としているのに、それを「空」で説明することは許されないであろう。同じような批判は、「空は実に空で、それがそのまま非空である。この自覚に目覚めることを、仏教は教える」(秋月龍眠『鈴木大拙の言葉と思想』)などという鈴木大拙の説明にも向けられるであろう。鈴木大拙の場合は、同語反復の過ちと、いわゆる「即非の論理」という彼自身のシステムへの移植、という二重の過ちが見られる。このように「空」という概念がその原典の文脈から切り離されて別のシステムや同語反復の中で語られたところに、空についての説明を読めば読むほど空の思想がわかりにくくなってゆく第二の原因があったとわたしには思われた。

そこで、わたしはナーガールジュナがいかなる文脈のなかで「空」という言葉を使用しているかに重点を置くことにした。それで、もうすでに中村元教授らによって指摘にされている、「空」と「自性」と「縁起」という三つの主要概念の相互関係を自分の目で確かめることにした。なぜなら、ナーガールジュナが「空」を語るとき、しばしば「自性」や「縁起」が一緒に語られていて、「空」とこれらの概念が深い関係を持っていることを示唆しているからである。つまり、「空」の概念をナーガールジュナ自身のシステムの中で理解しようと試みたのである。言葉の意味はそれが現れる文脈によってのみ与えられるものだからである。

(なお、本文の引用には、おもにLindtner教授のテキスト(Nagarjuniana: Studies in the Writings and Philosophy of Nagarjuna)を利用しました。そのほか、三枝充悳、山口益氏らのテキストおよび翻訳、中村元、梶山雄一、瓜生津隆真氏らの翻訳を参照・引用しました。翻訳が適切でないと思われる場合は、わたしの理解に従って、適当に修正して引用しました。)