佐倉哲エッセイ集

「世の終わり」は1914年に始まったか

--- エホバの証人の終末思想 ---

佐倉 哲


“キリストが1914年に戻って来られ、敵のまっただ中で支配を開始されたことを示す聖書的証拠については、この本の16章で考えました。それで次に、キリストの臨在の「しるし」の様々な特色と、サタンの邪悪な事物の体制が「終わりの日」にあることを示すさらに多くの証拠とを、注意深く調べてみることにしましょう。‥‥(中略)‥‥以上述べた事柄を考えると、キリストが言われた「しるし」や、キリストの弟子たちが予告していた証拠となる事柄が今起きつつあることは明白ではありませんか‥‥。それでわたしたちは次のことを確信できます。まもなく、すべての悪と悪人が、ハルマゲドンで突如終わりを迎えるということです。”
(『あなたは地上の楽園で永遠にいきられます』より)



エホバの証人と呼ばれる新興キリスト教団体の教義によれば、「世の終わり」は1914年に始まったことになっています。「世の終わり」(エスカトン)とは、人間の歴史にラディカルな終わりが来て、今までとは根本的に異なる、神の支配による新しい世界(神の国)の歴史が始まるという、キリスト教の教えを指します。聖書はこの「世の終わり」について、きわめて曖昧で、それゆえ、キリスト教の歴史は「世の終わり」に関するクリスチャンの様々な空想で満ちています。とくに、「世の終わり」の教義を真剣に信じる人たちの多くは、自分たちの生きている時代こそが「世の終わり」で、彼らは新しい世界の住人になるのだ、と信じました。この意味において、エホバの証人はまさに典型的な「世の終わり」主義者であるといえます。

しかし、エホバの証人を、他の「世の終わり」主義者から際だたせて特徴づけているものは、「世の終わり」が1914年に始まった、という教義です。しかも、それには「聖書的証拠」があるという。しかし、聖書のどこにも、具体的な年代をあげて、「世の終わり」が1914年に始まる、ということなど明記されてはいません。明記されていたら、クリスチャンは誰でも、そう信じるでしょう。そう信じているのが、一握りの、エホバの証人という団体だけであるという事実は、「世の終わり」に関して、エホバの証人がきわめて特異な聖書解釈をほどこしていることを意味しています。本論は、「世の終わり」が1914年に始まったことを示すという、このエホバの証人の「聖書的証拠」なるものを吟味するものであります。


世の終わりの「しるし」

1914年とは、もちろん、第一次世界大戦が始まった年です。そこで、マタイによる福音書24章の、終末のしるしに関する記述に相当すると、エホバの証人は考えます。マタイ24章には、イエスが、世の終わりの前兆の一つとして「戦争の騒ぎや戦争の噂」を挙げているからです。

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃって下さい。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされるないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことが起きるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎みあうようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:3〜14)
戦争だけでなく、飢饉や地震、偽預言者の現出、犯罪の増加、迫害なども、エホバの証人の主張によれば、1914年以降に顕著である、と言われています。しかしながら、戦争や飢饉や地震など、歴史上いつでも起こることであって、何故それが1914年でなければならないか、という点において決定的説得力を欠いています。そこで、エホバの証人たちは、1914年以降の場合は「世界的規模で」生じたから特別である、というような説明を一応試みますが、やはり決定的な説得力に欠けます。

実は、エホバの証人たち自身も、そういう戦争や地震があったから1914年に終末が始まった、と信じるようになったのではなく、1914年という具体的な年代には実は別の根拠があるのです。それが、彼らのいう「聖書的証拠」なのです。戦争や地震などは、証拠としては補助的なものにすぎません。したがって、世の終わりは1914年に始まった、という彼らの主張の信頼性を吟味するには、その「聖書的証拠」というものを吟味しなければなりません。


「聖書的証拠」

すでに指摘したように、1914年という具体的な年代が聖書にそのまま記述されているわけではありません。それでは、どのようにしてエホバの証人たちは、1914年という年代を導き出しているのでしょうか。簡単に結論を言えば、西暦前607年から2520年後がちょうど1914年になるからである、ということになるのですが、エホバの証人たちによれば、西暦前607年というのはユダ王国が崩壊した年であり、2520年というのはダニエル書の語る「七つの時」のことです。つまり、ユダ王国が崩壊した年から「七つの時」が過ぎたときがちょうど1914年であり、そのとき世の終わりが始まる、ということになります。

しかし、どんなに聖書に詳しい人でも、これだけでは何のことかさっぱりわからないはずです。なぜ「七つの時」が2520年になるのか、なぜユダ王国が崩壊した年から「七つの時」を数えるのか、そもそも「七つの時」と世の終わりがどのように関連しているのか、などということが疑問となるからです。なぜなら、ユダ王国が崩壊した年から「七つの時」が過ぎたときが世の終わりの始まりであるということも、また、「七つの時」とは2520年のことであるということも、やはり聖書にそのまま記述されているわけではないからです。聖書をこのように読むためには、ある特殊な解釈を必要とするのです。


エホバの証人の特殊な聖書解釈

世の終わりの時に関する、エホバの証人の特殊な聖書解釈を理解するために、少々長くなりますが、彼らの説明を次に引用します。これは、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の16章の「神の政府が支配を始めるとき」の14節から21節までの全文です。(原文の下線は太文字に変えてあります。)

【14】では、キリストが神の政府の王として支配を開始される年は、聖書のどこに予告されているでしょうか。それも同じく聖書のダニエル書にあります。(ダニエル4:10‐37)この場合は、天まで届くような高い木が、バビロンの王ネブカドネザルを表すものとして用いられています。ネブカドネザルは当時、人間の支配者としては最高の存在でした。しかしそのネブカドネザル王が、自分よりもさらに高い支配者がいることを、いやおうなく知らされることになりました。その方は「至高者」すなわち「天の王」であられるエホバ神です。(ダニエル4:34、37)ですからこの天に達する高い木は、神の最高支配権、とりわけこの地球との関係における最高支配権を、さらに重要な仕方で表すようになります。エホバの支配権は、イスラエル国民の上に立てられた王を通して、一時のあいだ表明されました。したがって、イスラエル人を治めたユダの部族の王たちは、『エホバの王座に座す』と言われました。―歴代第一29:23。

【15】聖書のダニエル書4章の記述によると、その天に達する高い木は切り倒されます。しかし根株は残され、鉄と銅のたががそれに掛けられます。このために根株は生長しませんが、神のご予定の時が来るとそのたががはずされ、再び生長し始めます。それにしても、神の支配権はどのように、そしていつ切り倒されたのでしょうか。

【16】エホバがお立てになったユダ王国はやがてひどく腐敗したので、エホバはネブカドネザル王がその王国を滅ぼすのを、つまり切り倒すのをお許しになりました。そのことは西暦前607年に生じました。その時、エホバの王座に座すユダ最後の王ゼデキヤは、「冠を取り外せ。……それは法的権利を持つ者が来るまで、決してだれのものにもならない。わたしはその者にこれを必ず与える」と告げられました。―エゼキエル21:25‐27。

【17】こうして、「木」によって表された神の支配権は、西暦前607年に切り倒されました。地上で神の支配権を代表する政府はもはやなくなりました。こうして西暦前607年に、イエス・キリストがのちほど「諸国民の定められた時」と言われた一つの期間、つまり「異邦人の時」が始まりました。(ルカ21:24欽定訳)この「定められた時」の間、神は御自身の支配権を地上で代表する政府を持たれませんでした。

【18】この「諸国民の定められた時」の終わりに何が起こることになっていたでしょうか。エホバが、「法的権利を持つ」方に、支配する権能をお与えになることになっていたのです。それで、「定められた時」の終わるときが分かれば、キリストが王として支配を始められる時も分かるでしょう。

【19】ダニエル書4章によると、この「定められた時」は「七つの時」となります。「木」によって表される神の支配権が地上に対して行使されない「七つの時」があることをダニエルは示しています。(ダニエル4:16、23)この「七つの時」はどれほどの長さでしょうか。

【20】啓示12章6節と14節を見るなら、1260日が「一時と二時と半時」に等しいことが分かります。合計して三時半です。それで「一時」は360日と等しいことになります。ですから「七つの時」は360の7倍、すなわち2520日と等しいことになります。そして、1日を聖書の規則に従って1年と数えるなら、「七つの時」は2520年となります。―民数記14:34。エゼキエル4:6。

【21】すでに学んだように、「諸国民の定められた時」は西暦607年に始まりました。それでその年から2520年を数えるなら西暦1914年に終わります。「定められた時」が終わったのはその年です。今生きている人の中には1914年に起きた事柄を覚えている人が幾百人万人もいます。その年には第一次世界大戦と共に恐ろしい苦難の時期が始まり、それはわたしたちの時代まで続いています。このことは、イエス・キリストが神の天の政府の王として、1914年に支配し始められたことを意味します。王国が来てサタンの邪悪な事物の体制を地から一掃するよう祈り求めることは、極めて時宜にかなったことと言えます。―マタイ6:10。ダニエル2:44。

以上が、終末の時に関するエホバの証人による聖書解釈ですが、この解釈は数多くの問題を抱えています。聖書を読んだことのない人にとっては、何が何やらよく分からないかも知れませんが、聖書に詳しい人にとっては、この解釈がきわめて不自然で、強引なものと感じられるでしょう。そこで、以下において、この聖書解釈の妥当性を詳しく吟味します。


基本構造

「世の終わり」が1914年に始まった、というエホバの証人の聖書解釈の基本構造をまとめてみると、だいたい次のようになるでしょう。

エホバの証人によると、1914年説の聖書的根拠はおもにダニエル書の記述にあります(上記14節)。とくに、その中の「天にまで届く高い木」の物語にその根拠があります。すなわち、「高い木」は地上における神の支配権を意味し、その木が倒されたのはユダ王国の滅亡を意味し、その木が倒されて再び生長を許されるようになるまでの期間である「七つの時」が、ユダ王国の滅亡から数えて2520年後の1914年が「世の終わり」が始まった、という主張の根拠になっているのです。

それゆえ、エホバの証人の1914年説が説得力を持つためには、先ず、「天にまで届く高い木」が地上における神の支配権やユダ王国を意味している、という彼らの解釈が説得力をもつこと、また、「七つの時」が2520年を意味している、という彼らの解釈が説得力をもつこと、この二つの解釈が説得力をもつことが必要とされていることが分かります。この二つが説得力を持ったものであるとすると、エホバの証人の1914年説は説得力を持ち、このうちの一つでも、説得力がないとすれば、エホバの証人の1914年説は崩壊してしまいます。したがって、次は、「天にまで届く高い木」が地上における神の支配権やユダ王国を意味しているかどうか、また、「七つの時」が2520年を意味しているかどうか、を検討してまいります。


「天にまで届く高い木」の本当の意味

「天にまで届く高い木」というのは、実は、ダニエル書に出てくる新バビロニア王国のネブカドネザル王が見る夢のなかに現れてくるのです(3:32〜4:34)。その木が切り倒されるというのも、その夢のなかの出来事です。ネブカドネザル王は自分のみたこの夢の意味が分からない。そこで、ベルテシャツァル(ダニエル)という人物が夢の意義を解きあかすことが出来るといううわさを聞いて、ベルテシャツァルを呼び寄せ、その夢の内容を彼に語り、「解釈をしてほしい」と願う、という物語になっているのです。

わたしの見た夢はこうだ。解釈をしてほしい。眠っていると、このような幻が頭に浮かんだのだ。
 大地の真ん中に、一本の木が生えていた。
 大きな木であった。
 その木は成長してたくましくなり
 天に届くほどの高さになり
 地の果てからも見えるまでになった。
 葉は美しく茂り、実は豊かに実って
 すべてを養うに足るほどであった。
 その木陰に野の獣葉宿り
 その枝に空の鳥は巣を作り
 生き物はみな、この木によって食べ物を得た。
更に、眠っていると、頭に浮かんだ幻の中で、聖なる見張りの天使が天から降ってくるのが見えた。天使は大声に呼ばわって、こう言った。
 「この木を切り倒し、枝を払い
 葉を散らし、実を落とせ。
 その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。
 ただし、切り株と根は地中に残し
 鉄と青銅の鎖をかけて、野の草の中に置け。
 天の露に濡れるにまかせ
 獣と共に野の草を食らわせよ。
 その心は変わって、人の心を失い
 獣の心が与えられる。
 こうして、七つの時が過ぎ去るであろう。
 この宣告は見張りの天使らの決定により
 この命令は聖なる者らの決議によるものである。
 すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高きかみであり、
 この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、
 また、最も卑しい人をその上にたてることもできるということを、
 人間に知らせるためである。」
これが、わたしネブカドネザル王の見た夢だ。さて、ベルテシャツァル、その解釈を聞かせてほしい。この王国中の知者は誰一人解き明かせなかったのだが、聖なる神の霊が宿っているというお前ならできるであろう。
(ダニエル4:6〜15)
というわけで、ベルテシャツァルと呼ばれたダニエルはこの夢明かしを始めるのです。果たして、ダニエルは、エホバの証人が言う通り、「天にまで届く高い木」は地上における神の支配権やユダ王国を意味している、と答えるでしょうか。次は、ダニエルの夢明かしの部分を聖書から引用します。
彼は答えた。「王様、この夢があなたの敵に、その解釈があなたの憎む者にふりかかりますように。ご覧になったその木、すなわち、成長してたくましくなり、天に届くほどの高さになり、地の果てからも見え、葉は美しく茂り、実は豊かに実ってすべてを養うに足り、その木陰に野の獣は宿り、その枝に空の鳥は巣を作る、その木はあなた御自身です。あなたは成長してたくましくなり、あなたの威力は大きくなって天にも届くほどになり、あなたの支配は地の果てにまで及んでいます。」(ダニエル4:16〜19)
ここでダニエルは、「天にまで届く高い木」は、エホバの証人の言うような「神の支配権」や「ユダ王国」を意味しているのではなく、ネブカドネザル王自身を意味している、と疑う余地のない明瞭さで語っています。引き続いて、この木が切り倒されたことの意味、「七つの時」の意味についても、ダニエルがどのように夢解きをするか、聖書から引用してみましょう。木が倒されるのは、エホバの証人が言うように、ユダ王国が滅びることを意味しているのでしょうか。「七つの時」とは、「異邦人の時」で、それは1914年まで続くものなのでしょうか。ダニエルは答えます。
「また、王様は聖なる見張りの天使が天から降ってくるのをご覧になりました。天使はこう言いました。この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、切り株と根を地中に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて野の草の中に置け。天の露に濡れるにまかせ、獣と共に野の草を食らわせ、七つの時を過ごさせよ、と。さて、王様、それを解釈いたしましょう。これはいと高き神の命令で、私の主君、王様に起こることです。あなたは人間の社会から追放されて野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露に濡れ、こうして七つの時を過ごすでしょう。そうして、あなたはついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままにそれを誰にでも与えられるのだということを悟るでしょう。その木の切り株と根を残すように命じられているので、天こそまことの支配者であると悟れば、王国はあなたに返されます。」(ダニエル4:20〜23)
ここでも、ダニエルの夢解きは明解です。木が倒されるということは、ネブカドネザル王が「人間の社会から追放され」ることを意味している、と彼は答えます。そして、「七つの時」とは、そうして追放されたネブカドネザル王が「野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露に濡れ」て生活する期間のことを意味しています。そして、残された「木の切り株と根」は、追放された王が、自己の傲慢さを反省し神こそが最高の権威者であることを悟れば、再び人間社会に復帰し、再び王国が彼のものになる可能性を表している、とダニエルは答えています。ダニエルの夢解きによれば、木が倒されることの意味は「ユダ王国の滅亡」でもなく、「七つの時」は「異邦人の時」でもありません。実際、ダニエル書によれば、この夢の予告は、2520年も待つことなく、ネブカドネザル王のときにすべて実現し、ダニエル書が書かれたときには、もうすべて終わってしまった過去の話だったのです。だから、ダニエル書はこう続けます。
このことはすべて、ブカドネザル王の上に起こった。12カ月が過ぎた頃のことである。王はバビロンの王宮の屋上を散歩しながら、こう言った「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、私の威光の尊さを示すものだ。」まだ、言い終わらぬうちに、天から声が響いた。「ブカドネザル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間社会から追放されて、野の獣と共に住み、牛のように草を食らい、七つの時を過ごすのだ。そうしてお前はついに、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神は御旨のままにそれを誰にでも与えるのだということを悟るであろう。」この言葉は直ちにブカドネザルの身に起こった。彼は人間社会から追放されて、牛のように草を食らい、その体は天の露に濡れ、その毛は鷲の羽のように、つめは鳥のように生え伸びた。その時が過ぎて、わたしネブカドネザルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻ってきた。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。
 その支配は永遠に続き
 その国は代々に及ぶ。
 すべて地に住む者は無に等しい。
 天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。
 その手を押さえて
 何をするのかと言いうる者はだれもいない。
言い終わると、理性がわたしに戻った。栄光と輝きは再びわたしに与えられて、王国の威光となった。貴族や側近もわたしのもとに戻ってきた。こうしてわたしは王国に復帰し、わたしの威光は増し加わった。それゆえ、わたしネブカドネザルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者は倒される。(ダニエル4:25〜34)
というわけで、「天にまで届く高い木」の物語は完了します。それは、世の終わりに関する予言などではなく、「驕る者は倒される」という教訓の物語だったのです。つまり、エホバの証人の解釈には聖書的根拠はない、と言わねばなりません。実際、歴史上のユダ王国を滅ぼした張本人はネブカドネザル自身の率いるバビロニア王国の軍隊だったのであって、「高い木」をユダ王国と解釈するエホバの証人の立場と、その木をユダ王国を滅ぼす張本人となるネブカドネザル自身と解釈する聖書の立場とは相入れない矛盾した解釈であるといえるでしょう。


エホバの証人の論理

それにしても、このように明確に夢明かしをしているダニエルの解釈にもかかわらず、エホバの証人はどのようにして、「高い木」をユダ王国と解釈する結論を導きだしたのでしょうか。もう一度、その論理を検討してみましょう。上記のエホバの証人の記述をよく見ると、確かに14節の前半には、「天まで届くような高い木が、バビロンの王ネブカドネザルを表すものとして用いられています」と書いてあります。ところが、17節を見ると、「『木』によって表された神の支配権は、西暦前607年に切り倒されました。地上で神の支配権を代表する政府はもはやなくなりました」と書かれてあるように、ここでは木の意味はユダヤ王国になっています。つまり、14節から17節に至る間のどこかで、木の意味のすり替えがなされているのです。どこで、どのように、意味のすり替えがなされているのでしょうか。

注意深く読んでみると、この意味のすり替えが、14節の後半になされていることがわかります。つまり、

ネブカドネザルは当時、人間の支配者としては最高の存在でした。しかしそのネブカドネザル王が、自分よりもさらに高い支配者がいることを、いやおうなく知らされることになりました。その方は「至高者」すなわち「天の王」であられるエホバ神です。(ダニエル4:34、37)ですからこの天に達する高い木は、神の最高支配権、とりわけこの地球との関係における最高支配権を、さらに重要な仕方で表すようになります
という記述の中にあります。特に接続詞「ですから」の前後に注目すると、「高い木」の意味のすり替えが、まさに、この接続詞を中心に、なされていることが分かります。つまり、「ですから」という接続語は前提と結論を結ぶ役目をする言葉なのに、ここでは、前提とは論理的に無関係な新しい考え(「高い木」の新しい意味)が、まるで、論理的結論であるかのような形を取りながら、ここにそっと差し込まれているのです。これは不自然で強引な聖書解釈がもたらした論理的誤謬なのです。


「七つの時」は2520年である、という計算

ダニエル書における「高い木」が、地上における神の最高支配権でもユダ王国でもなく、明らかにバビロニアのネブカドネザル王を意味していたことがわかれば、「七つの時」が2520年であるという主張も無意味な主張であることも分かります。しかし、「七つの時」は2520年であるというエホバの証人の奇妙な計算に関しても、詳しく吟味しておくことが大切だと思われます。というのは、この場合でも、終末1914年説を正当化するために、エホバの証人がいかに不自然で強引な聖書解釈から生じているかが、明らかになってゆくからです。

まず、ひと時がどのくらいの長さかを、黙示録(啓示の書)の11章に求め、「ひと時」は360日と等しいと解釈されています。つまり、ひと時は一年のことですが、これは、現代聖書学が通常理解している通りです。したがってダニエル書の「七つの時」というのは、現代聖書学では通常7年と解釈されているのです。実に興味深いことに、エホバの証人自身の『聖書全体は霊感を受けたもので有益です』というもう一つの本によると、やはり、ネブカドネザルが人間社会を追われていた「七つの時」は「7年」であると書いてあります(140頁)。

それにもかかわらず、エホバの証人は1914年説を正当化するために、それとは別に、「七つの時」は2520年でもある、ともするのです。そして、この解釈のために持ち出されるのが、「1日を聖書の規則に従って1年と数える」という不可解な主張です。果たしてそんな「聖書の規則」などあるのでしょうか。この主張は民数記14章34節とエゼキエル4章6節を根拠としているのですが、本当に聖書においては1日とは1年のことなのでしょうか。調べてみましょう。まず民数記の記述を見ると、

お前たちの子供は、荒れ野で羊飼いとなり、お前たちの最後の一人が荒れ野で死体となるまで、お前たちの背信の罪を負う。あの土地を偵察した四十日という日数に応じて、一日を一年とする四十年間、お前たちの罪を負わねばならない。(民数記14章33〜34)
となっています。ここで「偵察した四十日」というのは、神が与えると約束したカナンの地を偵察するために、モーセが何人かの偵察隊を遣わすのですが、二人の例外を除いて、彼らはすべて悲観的な報告を持って帰り、神の怒りを買ったという、有名な背信行為のことを指しています。ここでは四十日間の背信行為の罰として、四十年の刑が神によって与えられているのです。したがって、四十日というのは四十年のことである、などというようなことがここで語られているのではなく、刑罰の期間を決定するために、四十日という不信仰の期間が参考とされているに過ぎません。おそらく、四十日の背信行為にたいして、四十年という刑罰期間を与えることによって、それがいかに重罪であったかを示しているのでしょう。どのように読んでも、聖書においては一日は一年と解釈すべきである、というような「聖書の規則」がここに書いてあるとは思われません。次にエゼキエル書を調べてみましょう。
左脇を下にして横たわり、イスラエルの家の罪を負いなさい。あなたは横たわっている日の数だけ、彼らの罪を負わなければならない。わたしは彼らの罪を負わねばならない。わたしは彼らの罪の年数を、日の数にして、三百九十日と定める。こうして、あなたはイスラエル家の罪を負わねばならない。その期間が終わったら、次に右の脇腹を下にして横たわり、ユダの家の罪を四十日間負わねばならない。各一年を一日として、それをあなたに課す。(エゼキエル書4章4〜6)
ここでも、民数記の時と同じように、罪に対する罰の期間を決定するために、年数と日数が考察の対象になっています。しかし、民数記の時とは逆に、ここでは一年の罪にたいして一日の罰が与えられます。従って、イスラエル家(北方イスラエル王国に帰属した部族)の罪の期間は390年間に相当し、ユダの家(南方ユダ王国に帰属した部族)の罪の期間は40年間に相当していると示唆していることがわかります。それが具体的に何であったかエゼキエル書には明記されていませんが、それが何であったとしても、ここでエホバの証人が主張しているような、一日は一年のことであるというような奇妙な「聖書の規則」を読みとることは不可能です。一年相当の罪にたいして一日相当の罰が与えらているだけです。あえて言えば、「七つの時」は七年なのですから、一日を一年と数える民数記ではなく、一年を一日と数えるエゼキエル書に従えば、「七つの時」とは七日である、ということにでもなるでしょうか。

このように、エホバの証人が彼らの主張の聖書的根拠と考えている民数記14章34節もエゼキエル4章6節も、彼らの主張を支持していません。むしろ、それらは、彼らの解釈の仕方がいかに不自然で強引なものであるかを示すものと言えるでしょう。その解釈の不自然さ強引さは、彼らがこの「聖書の規則」なるものを、「天に届く高い木」の物語にだけに当てはめ、聖書の他の部分では応用していないことにも、現れていると言えるでしょう。例えば、聖書はイエスが殺されて三日後に復活したことを述べていますが、「1日を聖書の規則に従って1年と数える」エホバの証人の規則に従えば、イエスは三年後に復活したことになるはずです。以上の検討により、エホバの証人のいう、一日イコール一年、という「聖書の規則」なるものはまったく聖書的根拠のない、極めて不自然で強引な解釈であると結論せざるを得ません。


もう一つの重大欠陥

さて、以上で、ダニエル書の「高い木」が「地上における神の最高支配権」やユダ王国を表しているという主張や、同じくダニエル書の「七つの時」は2520年であるという主張が、実は、まったく聖書的根拠をもたない主張であることが明らかになりました。しかし、ちょっと目をつむって、たとえこのような主張が聖書的根拠を持っていると仮定しても、実は、エホバの証人の終末1914年説には、もう一つの致命的な欠陥があるのです。それは何かというと、1914年説が成立するためには、ユダ王国が崩壊した年から数えて2520年たったときが世の終わりの始まりである、ということが認められるだけではまだ十分ではないのです。ユダ王国が崩壊した年が西暦前607年でなければならないのです。ところが、ユダ王国が崩壊した年は西暦前587年ないし586年なのです。このことは歴史学的にも考古学的にもあまりにも決定的と見なされていますから、現代のメソポタミアやエジプトやパレスチナの古代史を知るものにとっては、エホバの証人の終末1914年説は、とても受け入れるものではないと思われます。


結論

キリスト教の教えの特徴の一つはその終末思想です。それは、わたしたちの知っているような歴史にラディカルな終わりがやってくる、という思想です。エホバの証人と呼ばれる新興キリスト教団体も、やはり終末思想を持っていますが、彼らの終末思想をきわめて特徴づけているものは、「世の終わり」が1914年に始まったという主張です。しかも、この1914年説は聖書的証拠に基づいている、と彼らは主張するのです。そこで、本論文はその主張を徹底的に分析し、聖書の記述をいちいち詳しく調べて見た結果、1914年説の「聖書的証拠」なるものがまったく根拠を持たない主張であることが判明しました。また、それに加えて、1914年説の基年となるべきユダ王国の崩壊年代について、彼らの主張は致命的な間違いをしていて、たとえ彼らの「聖書的証拠」なるものが正しかったと仮定しても、1914年説は成立し得ないことが明らかになりました。したがって、エホバの証人の終末思想は説得力に欠ける思想であることが結論として導き出されます。