聖書の間違い

「二人の強盗」の矛盾

佐倉 哲


福音書の記録によれば、イエスが処刑されたとき、二人の強盗が一緒に処刑されたことになっていますが、処刑される直前にイエスと二人の強盗の間に交わされた言葉のやりとりに関して、マルコやマタイの記述とルカの記述の間には矛盾があります。


福音書の記録によれば、イエスが処刑されたとき、二人の強盗が一緒に処刑されたことになっていますが、処刑される直前にイエスと二人の強盗の間に交わされた言葉のやりとりに関して、マルコやマタイの記述とルカの記述の間には矛盾があります。

マルコやマタイの記述によれば、この二人の強盗は、群衆と一緒になって、ともにイエスを罵ったことになっています。

マルコ 15:27-32
また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救って見ろ。」同じように、祭司長立ちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

マタイ 27:38-44
折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救って見ろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長立ちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられていた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

ところが、ルカの記述によると、二人の強盗のうち一人は、イエスをののしるどころか、他の強盗をたしなめて、イエスをかばうだけでなく、彼は、イエス自身から、イエスとともにパラダイスに行くことを約束されるという、きわめてドラマチックな展開となっています。

ルカ 15:27-32
ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人左に、十字架につけた。・・・民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、十分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

福音書がイエスに関する事実を記述したものではなく、初期のクリスチャンの間で出回っていたさまざまなうわさをもとにしてつくられた神学的創作であることがわかります。義経伝説のように、死んだ英雄というものには、どこのくにでも、死後さまざまなおもしろい物語が付け加えられてゆくもののようです。