聖書の間違い

イエスの最期(3)

--- イエスの最期の言葉 ---

佐倉 哲


十字架につけられたイエスが死の直前、最期の言葉として残したものを福音書は記録しています。ところが、マタイとマルコはその言葉の内容に一致があるのですが、ルカとヨハネは、まったく異なる言葉をイエスの最期の言葉として記録しています。



イエスの最期の言葉

マタイとマルコによると、十字架上のイエスが死の直前語った最期の言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、きわめて現実感のともなう、苦悩に満ちた言葉です。

マタイによる福音書 27:46-50
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」という者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

マルコによる福音書 15:34-37
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

ところが、ルカやヨハネによると、平安と満足感にあるれる、まったく異なった言葉を、イエスの最期の言葉として残しています。
ルカによる福音書 23:44-46
既に昼の十二時頃であった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

ヨハネによる福音書 19:28-30
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の預言が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器がおいてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

このように、福音書は、イエスの最期の言葉に関して、矛盾した記録を残しています。この不一致は、おそらく、初期のクリスチャンのイエスの死に関する理解の変遷を示しているのだ、と思われます。福音書は、イエスの死に際して、その弟子たちは逃避したことを記しています。教祖の死という絶体絶命の危機に面したわけです。この事態を代表するのがマタイとマルコが残した「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉(詩編22からの引用)でしょう。ところが、やがて、イエスの復活の信仰がはじまり、それにともなって、イエスの死が、イエスの宗教運動の敗北ではなく、神の意志によってあらかじめ定められた、救いのために必要な犠牲であった、という解釈が持ち込まれるようになります。この段階を示すのが、ルカの残した「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というイエスの言葉であり、ヨハネの残した「成し遂げられた」と言うイエスの言葉です。つまり、イエスの死は敗北ではなく勝利であった、という新解釈です。このような新解釈が、イエスの口に別の言葉を語らせる結果となったのでしょう。