聖書の間違い

イエスの最期(2)

--- イエスはぶどう酒を飲んだか ---

佐倉 哲


十字架につけられたイエスが息をひきとる直前、だれかが「酸いぶどう酒」を海綿につけてイエスに飲ませようとしたことを福音書は記録しています。しかし、マルコやマタイに従えば、イエスは飲む直前に息を引き取ったことになっていますが、ヨハネによれば、イエスはぶどう酒を受けてから、その直後息を引き取ったことになっています。



イエスはぶどう酒を飲んだか

新約聖書の福音書のうち、マルコ、マタイ、ヨハネは、十字架につけられたイエスが息を引き取る直前、だれかが酸っぱいぶどう酒を海綿につけてイエスに飲ませようとしたことを記録しています。この三つの福音書のうち、マルコとマタイによれば、ぶどう酒を飲まそうとしたけれど、その前にイエスは「大声で叫んで」息を引き取ってしまいます。

マタイによる福音書 27:46-50
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」という者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

マルコによる福音書 15:34-37
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

このようにマタイとマルコによれば、「飲ませようとした。しかし…」という言明が明確に告げているように、イエスはぶどう酒を飲む直前に息を引き取ったことになっています。ところが、ヨハネの記録によれば、イエスはぶどう酒を受け取り、それから、しずかに「成し遂げられた」と言って、息を引き取ったことになっています。しかも、ヨハネの記録によれば、イエス自身が「渇く」と言って要求している形になっているのです。さらに、マタイとマルコによれば、その時「待て」といって、エリヤがイエスを助けるかどうか見ようと言った人物がいたことになっています。その人物が誰であったかについてはマタイとマルコは矛盾した記録を残していますが、少なくとも、そういうことがあったことでは一致しています。しかしながら、ヨハネによれば、マタイやマルコと違って、「待て」と言った人物はまったく登場しません。
ヨハネによる福音書 19:28-30
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の預言が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器がおいてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。


なぜ福音書は矛盾しているのか

なぜ、福音書にこのような矛盾があるのでしょうか。イエスの生涯を語る福音書は、どれもイエスの死後、何十年も経て書かれたものであり、それを書いた著者たちは誰もイエスを見た人はいません。彼らは、イエスの弟子たちや弟子の弟子たちが語り伝えたものや書かれたものを資料にして、イエスの物語を書いたのです。このように、彼らが史的イエスの直接の目撃者ではなく、言い伝えなどの間接的資料をもとに福音書を書いたことは、例えばつぎのようなルカの証言でわかります。

ルカによる福音書 1:1-3
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語に書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロ様、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
つまり、イエスについての物語は、それが福音書という形で書き留められるようになる前には、口承伝承として存在していたことがわかります。たとえば、福音書の中で最も古いと言われているマルコでさえ、それが西暦70年のローマ帝国によるエルサレム攻撃について言及している(13:14-23)と考えられていますから、それは、イエスの死後、ほぼ40年ぐらい経た後に書かれたものであると推定されます。マタイやルカはこのマルコを基にしてそれぞれの福音書を書いたのですから、コピーのコピーということになります。マタイやルカは西暦80年から90年の間に成立したものと推定されています。さらに、ヨハネの福音書になると、西暦90年から100年の間、つまりイエスの死後60年から70年後に成立したと推定されています。つまり、福音書のイエス物語は、いわば、昭和や平成の人が書いた明治の人物の物語のようなものと言えるでしょう。しかも、印刷技術も写真技術もなく、口承伝承に頼らざるを得なかった福音書のイエス物語が、矛盾に満ちているのは当然と言えるかも知れません。

ヨハネは、イエスの最期の場面で、他の福音書にはない言葉を、イエスに語らせます。ヨハネによれば、イエスはぶどう酒を飲む前に「渇く」と語るのです。いったいどのようにして、ヨハネは、マルコもルカもマタイも知らなかったことを知っているのでしょうか。これを解くカギは「聖書の預言が実現した」という彼の言葉にあります。一般に初期のクリスチャンはイエスが神からの救い主であるということを「証明」するために、イエスの言動やクリスチャンの運動のなかに、聖書の預言を見ようと非常な努力をしています。つまり、イエスやその弟子たちの言動がかつて旧約聖書に預言されていたものである、という信仰的努力です。ヨハネによる福音書は特別にその傾向の強い書です。この観点から照明をかざして調べてみると、イエスの「渇く」と言う言葉が、実は旧約聖書の詩編からの借り物であることが明らかにされます。

詩編 69:22
人はわたしに苦いものをたべさせようとし
渇くわたしに酢を飲ませようとします。
つまり、イエスの言動が神の預言の成就であることを証明したい、というヨハネの篤い信仰的情熱が、イエスに「渇く」という言葉を語らせたのです。このようにして、わたしたちは、福音書のイエス物語を読むとき、イエスについての史的事実を読んでいるのではなく、福音書の著者たちのイエスに関する信仰告白を読んでいるのである、と思い知らされるのです。