聖書の間違い

イエスの最期(1)

--- 誰が「待て」と言ったか ---

佐倉 哲


十字架につけられたイエスが息をひきとる直前、だれかが酸っぱいぶどう酒を海綿につけてイエスに飲ませようとしたとき、「待て」と言った人物がいます。しかし、この人物が誰であったかに関して福音書は矛盾した記録を残しています。



誰が「待て」と言ったか

新約聖書の福音書のうち、マルコ、マタイ、ヨハネは、十字架につけられたイエスが息を引き取る直前、だれかが酸っぱいぶどう酒を海綿につけてイエスに飲ませようとしたことを記録しています。この三つの福音書のうち、マルコとマタイは、そのとき、「待て」と言った人物があったことを記録しています。この人物は、預言者エリヤがイエスを助けに来るかどうか見てみようではないか、というのです。ところが、マルコとマタイは、そう言ったこの人物が誰であったかに関して矛盾した記録を残しています。

マタイによる福音書 27:46-50
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」という者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

マルコによる福音書 15:34-37
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

マタイによれば、「待て」と言った人物は、死にそうなイエスに酸いぶどう酒を含ませようとしていた人物の行為を止めさせようとした「他の人々」です。ところが、マルコによれば、「待て」と言った人物とイエスに酸いぶどう酒を含ませようとしていた人物は同一人物です。マルコによれば、彼は「待て」と言いながらイエスにぶどう酒を含ませようと走り寄っていたことになっています。

現代聖書学によれば、マタイによる福音書とルカによる福音書の著者はどちらも、それを書いたとき、マルコによる福音書を持っていて、それを基本に他の資料(イエス語録、など)を加えて、それぞれの福音書を書き上げた、と言われています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は「共観福音書」と呼ばれています。それは、もう一つの福音書ヨハネに比べて、この三つが大変よく似ていて、まるでコピーしたかのように、一語一語がまったく同じであるような箇所が沢山あるからです。この事実をもっともよく説明するのが、彼らが同一の資料を持っていたという学説です。そして、そのなかでもっとも有力な学説が、マタイとルカが、マルコを基本資料にしたという学説です。

この学説に従うと、本論文で問題にしているところも、極めてうまく説明が付きます。上記に引用したように、まず、この二つが極めてよく似ていることがわかりますが、「待て」と言った人物について矛盾が生じているのです。この事態は、マタイがマルコをコピーした後、この部分をマタイが書き直したと解釈すればもっとも合理的に説明が付きます。なぜなら、マルコの記録したところに従えば、意味がよく通じないからです。マルコの言うように、「待て」と言った人物とぶどう酒を含ませようとした人物を同一人物にしてしまっては、いったい誰に向かって「待て」といっているのかわからくなってしまうからです。したがって、「待て」と言った人物に関してマタイはマルコの間違いを訂正した、と見るがもっとも自然な解釈だと思われます。